東京駅 設計 コンドル

明治のお雇い外国人イギリスのコンドル指導の下、辰野金吾が設計した代表的な建築物だという . 工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部) 第1期生 ・片山東熊 ・辰野金吾 ・曽禰達蔵 ・佐立七次郎 第2 現在の東京駅前広場 . コンドル、曽禰達蔵は、三菱1号館などから、作り始めるが、 東京駅の設計を、辰野金吾に依頼する。 そのことが、いつまでも気がかりだった。 長方形の大きな駅で、レンガで全部作るという作り方。 日本の玄関口である東京駅には、日本橋口・八重洲口・丸の内口の3方向に出入り口が設けられている。そのうち、帝都・東京の象徴ともいえるのは赤レンガが目を引く丸の内口だ。明治初期、日本に鉄道が開業したころ、欧米各国は鉄道機能を集約した中央駅をつくっていた。対して、日本の首都たる東京では西へと向かう新橋駅、北へと向かう上野駅といった具合に、ターミナル駅が方面ごとに分散していた。鉄道を開業させたばかりの日本でも、中央駅の必要性は論じられていた。そして、明治半ば頃から中央駅の計画が進められる。政府首脳は世界から一等国と認められるために、中央駅の駅舎に品位と風格と威厳を求めた。それらを兼ね備えた駅舎でなければ、世界から一等国と認めてもらえない。駅舎デザインは、その国の文化や技術を表す指標であり、文明国にふさわしいものをつくらなければならない。政府首脳はそう考えていた。しかし、鎖国を解いたとはいえ、日本は長らく海外の文化や知見を吸収していなかった。当然ながら欧米諸国と伍するような駅舎を設計できる人材は見当たらず、政府はドイツから来日していたお雇い外国人のバルツァーに設計を依頼することになる。1890年、内務大臣から「中央駅を設置して、新橋駅と上野駅とを結ぶ高架線を建設する」ことが鉄道庁長官へ言い渡された。そして、その中間地点に中央停車場を設置することが決まる。この中央停車場が後に東京駅になるわけだが、名称は長らく決まらず、中央停車場という仮称のまま計画は進んだ。中央駅の駅舎デザインを命じられたバルツァーは、来日してから日本文化に感銘を受けていたため、政府首脳に提示されたのは寺社建築を思わせる和風のデザインだった。西洋建築による絢爛豪華な駅舎を望んでいた政府首脳はその案に不服だった。とはいえ、偉大な建築家がデザインした駅舎案をむげに却下することはできない。そのため、バルツァー案は保留にされる。こうして政府は駅舎デザインを決定しないまま歳月は過ぎていく。日清・日露戦争が勃発すると資材調達は難しくなり、また戦費を割り振る関係から駅舎に財源を割く余裕もなくなる。中央駅の計画は凍結された。その間、丸の内の駅舎は着工されずに放置された。1903年、バルツァーは帰国。政府首脳たちにとって、中央駅の設計を一から変える千載一遇のチャンスが到来した。すかさず政府はバルツァー案を取りやめ、改めて国内ナンバーワンの建築家との名声を得ていた辰野金吾にデザインを依頼する。辰野は、すでに日本銀行本店や旧両国国技館を設計した実績があり、国内で名声を得ていた。建築界の巨匠だった辰野には優秀な弟子も多く、薫陶を受けた弟子たちが国内各地で活躍していた。とくに、銀行建築では辰野と辰野の弟子たちの独壇場になっていた。国内では右に出る者がいないほどの大建築家になっていた辰野は、銀行建築のみならず駅舎建築でも実績を残していた。1907年には南海鉄道(現・南海電気鉄道)の浜寺公園駅、1912年には鉄道院(のちの国鉄、現在のJR)の万世橋駅を設計している。万世橋駅は、もともとJR中央線の前身である甲武鉄道が計画していたもので、同鉄道のターミナル機能を担うことが期待されていた。そのため、万世橋駅の駅舎には威信をかけており、当代随一の建築家である辰野に品位と風格を備えた駅舎デザインを求めた。そして、辰野は西洋建築様式を取り入れた赤レンガ駅舎を見事に完成させる。万世橋駅の駅舎は、後に竣工する東京駅赤レンガ駅舎とうり二つだった。駅舎のみならず駅前広場も広々しており、東京市民の足になっていた市電(現・都電)のアクセスもよかったことから、一躍、東京名所として脚光を浴びるようになる。バルツァーが日本を去った後、中央駅を設計するという大役を任せられる建築家は辰野のほかにいなかった。こうして、首都の中央駅建設という鉄道史上最大のプロジェクトを託された辰野は、政府首脳が思い描く「世界の一等国と肩を並べるデザイン」という期待に応えて、品位と風格を兼ね備えた赤レンガ駅舎を完成させる。1914年、中央駅は「東京駅」として華々しく開業を迎えた。当初は丸の内口しかなかったが、開業後も更新を繰り返しながら、今の姿に至っている。100年以上の歴史を有する東京駅は絶えず時代に合わせて進化を繰り返してきたのだ。辰野は1919年に没した。昨年は没後100年という節目の年にあたるため、東京駅のステーションギャラリーや日本銀行本店に隣接する貨幣博物館などで辰野を顕彰する特別展が開催された。東京駅を語るうえで、設計者である辰野を欠かすことはできない。そして、もう1人忘れてはならない人物がいる。それが、辰野の師匠でもあったジョサイア・コンドルだ。東京駅の丸の内駅舎が日本の玄関口であり、日本を象徴する駅舎であることに異論を挟む人はいないだろう。しかし、長い歴史の中で丸の内駅舎が日本の玄関口、帝都・東京の象徴という地位を得ることができたのは、駅舎そのものの評価に加えて駅から広がる洗練された街区と美しい街並みがあったから、でもある。赤レンガ駅舎がどんなに優れたデザインであっても、そこから広がる街が魅力に欠けていたら東京駅赤レンガ駅舎の魅力は色あせてしまう。駅舎単体の輝きでは、人々を魅了することはできないのだ。東京駅赤レンガ駅舎と皇居に挟まれたエリア、いわゆる日本屈指のオフィス街が形成されている丸の内を伴ってこそ東京駅は帝都の象徴・日本の玄関口たりうる。その丸の内をモダンな街へと変貌させたのが、コンドルだった。現在の丸の内には、三菱のグループ企業が軒を連ねている。そのさまから、丸の内一帯は「三菱村」とも形容される。戦前期に三大財閥に数えられた三菱は、戦後に進駐してきたGHQが財閥解体を指示したことで消滅。だがその後も、流れをくむ企業群は水面下で協力してきた。そして歳月とともに再結集し、財閥のような形態ではないものの、三菱グループの企業群は新たな形で結束力を固めている。丸の内に陣取る三菱が東京駅前の一等地を手にしたのは、明治半ばになってからだ。三井・住友とともに三大財閥に数えられる三菱だが、歴史の面では三井・住友に遠く及ばない。江戸時代に勃興した両財閥に対して、三菱は明治期に台頭した新参組でしかない。明治政府発足当初、歴史の浅い三菱は政府からの信頼が薄かった。創業者・岩崎弥太郎の力によって三菱は急成長し、その後も岩崎家総帥の力で国家と急接近して巨大化した。丸の内一帯は、今でこそ多くのビジネスマンでにぎわう一等地になっている。しかし、三菱が手に入れる前は違った。一帯には明治半ばまで、約8万4000平方メートルにもおよぶ広大な陸軍の練兵場があった。この練兵場が移転することになり、政府は跡地を払い下げようとする。まだ東京駅が開業する前だから、周辺は何もない茫洋とした荒野だ。そんな荒野に大金を払う者はなく、渋沢栄一が三井・大倉と結成したコンソーシアムと三菱財閥の2者だけが応札する。しかし、政府の希望価格が高すぎたために入札は不調に終わった。その後、政府に頭を下げられて三菱は丸の内の土地を購入させられる。その代金は、三菱にとって大きな負担になった。丸の内を購入したことで三菱の屋台骨は揺らぎ、三菱財閥が消滅する危機もささやかれた。しかし、そうした逆境をはねのけ、明治後期から昭和前期にかけて三菱村とも形容されるオフィスエリアが丸の内に形成されていく。丸の内のオフィス街の第一歩を飾る三菱1号館は1894年に竣工した。その後も次々と三菱財閥が一帯の開発を進めていくが、三菱1号館をデザインしたのも、そして丸の内のオフィス街計画を主導したのもコンドルだった。コンドルは、明治政府がイギリスから招聘したお雇い外国人として知られている。来日した当時は、まだ25歳の若者にすぎなかった。それでも、政府は高給でコンドルを雇用した。まだ建築という概念が薄かった日本において、政府は後進の建築家を育成・指導するという重要な任務をコンドルに委ねた。政府の意向で、コンドルは工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授に就任する。教え子には辰野のほか、コンドルとともに丸の内のオフィス街建設に取り組んだ曽禰達蔵、大蔵省に入省して庁舎建築の分野で名をはせた妻木頼黄といった逸材がいる。辰野・曽禰・妻木の3人は明治の建築界をリードした。いわば、コンドルの教えから日本の建築界は出発していると言っても過言ではない。東京駅は弟子の辰野が、そして東京駅前は師匠のコンドルが設計したわけだから、東京駅は師弟合作という総合芸術作品ともいえる。コンドルは、単に西洋の建築技術や思想を最先端として日本に押し付けがましく広めることをしなかった。バルツァーと同じく、コンドルも来日後に日本の伝統文化に魅了された。多忙な仕事の合間を縫って、日本画の手ほどきを受けてもいる。そして、日本の美術・芸術の造詣を深め、そこから西洋建築にも調和するような庭園像なども模索した。コンドルが主導した丸の内のオフィス街計画は、どことなく出身地であるイギリス・ロンドンを彷彿とさせる街並みになった。そのため、しだいに丸の内一帯は「一丁倫敦」と呼ばれるようになる。三菱財閥の支援を得たこともあって、コンドルは丸の内に次々と瀟洒(しょうしゃ)な建築物を建てていった。そうした瀟洒な建物が三菱財閥系のオフィスとして使われることになり、丸の内はオフィス街へと変貌していく。二番弟子でもあり、辰野のよきライバルでもあった曽禰はコンドルの片腕として丸の内オフィス街計画に獅子奮迅の働きをした。そして、曽禰の弟子、いわばコンドルの孫弟子にあたる保岡勝也といった名建築家も育ち、保岡も丸の内のオフィス街計画に多大な足跡を残していく。保岡は東京帝国大学で建築を学ぶが、指導教授は辰野だった。大学卒業後に三菱に入社し、曽禰の下で丸の内のオフィス街計画に取り組む。保岡は辰野・曽禰両者の弟子でもあった。そして、この保岡が丸の内オフィス街計画の掉尾を飾るという重要な役割を果たす。1906年、保岡は曽禰の後継として丸の内オフィス街計画の総責任者に就任。三菱の8号館から21号館までを設計した。こうして1906年までに三菱21号館が落成する。当時、肝心の東京駅赤レンガ駅舎はまだ完成していない。つまり、丸の内のオフィス街は東京駅よりも先に完成を見たのだ。しかし、姿形もない東京駅を想定して丸の内オフィス街は設計されていた。東京駅赤レンガ駅舎から皇居へと延びる大通りは、行幸通りと命名されている。その名の通り、天皇が皇居から東京駅へと向かう役割を果たしているが、コンドル・曽禰・保岡が構想した丸の内オフィス街計画の時点で行幸通りは計画図に盛り込まれていた。駅が姿を現わす前から、皇居から東京駅へとつづく道が存在していたのだ。丸の内の三菱村は東京駅なくして成り立たないが、東京駅の赤レンガ駅舎も丸の内なくして成り立たなかった。丸の内オフィス街計画を主導したコンドルは、その後も日本にとどまった。そして、三菱のみならず三井や古河といった財閥の邸宅などを手がけている。そして、イギリスに帰国することなく日本で没した。辰野とコンドルは師弟関係にあり、よきライバル関係でもあったが、1919年に辰野、1920年にコンドルと、両者は連れ添うようにこの世を去った。東京駅も東京駅前も、どちらもすばらしいデザインをしている。2つが並存してこそ、100年の時を超えて東京駅赤レンガ駅舎と丸の内オフィス街が輝き続けることができるのだ。単体だったら、その評価は大きく異なっていただろう。東京駅丸の内口の風景も違ったものになっていたに違いない。

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