大田原キリスト教会は保守バプテスト同盟に属するプロテスタントの教会ですヨハネの福音書から学んでおります。きょうは6章22節から40節までの箇所から、「天から下って来たパン」というタイトルでお話しします。 Ⅰ.いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい(22-27) まず22節から27節までをご覧ください。「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」 22節の「その翌日」とは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で男だけで五千人の人々の空腹を満たされた奇跡を行った翌日のことです。群衆は、イエス様の動きを観察していました。不思議なのは、弟子たちだけが舟に乗り込んで向こう岸に向かったはずなのに、そこにイエス様の姿がなかったことです。するとそこに、ティベリアから数隻の小舟がやって来たので、これ幸いとばかり、人々はその舟に乗り込み、イエスを探しにカペナウムに向かいました。そして、湖の反対側でイエス様を見つけると、彼らはイエス様に言いました。「先生。いつここにおいでになったのですか。」すると、イエス様は彼らに答えられました。26節、「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」どういうことでしょうか。イエス様が「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と言われる時は、極めて重要なことを語られる時です。イエス様は、人々の質問に対して「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言いました。 彼らはガリラヤ湖を渡ってわざわざイエス様を捜しに来たのは、イエス様がなさった奇跡を見て、イエス様を信じたので来たのではなく、パンを食べて満腹したからです。イエス様がなされた奇跡を見て信じることは本物の信仰とは言えませんが、それでも信仰の入口に導かれたという意味では評価できます。しかし、これらの群衆はまだそこまでにも達していませんでした。彼らがイエス様を捜していたのはイエス様がなさった奇跡を見て信じたからではなく、ただパンを食べて満足したからだったのです。つまり、彼らは救いを求めてイエスのもとに行ったのではなく、ただ自分の欲求が満たされるために行ったのです。何のためにイエスの許に行くのかとはとても重要なことです。私たちは何のために教会に来ているのでしょうか。何のために礼拝しているのでしょう。パンを食べて満足したからですか。ただ自分の心が満たされるためでしょうか。そのことを吟味しなければなりません。そして、永遠のいのちを求めてキリストの許に行く者でありたいと思います。 それに対してイエス様は何と言われましたか。27節です。とても有名なみことばですので、ご一緒に読んでみたいと思います。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」「なくなってしまう食べ物」とは、この地上の食べ物のことです。イエス様は、そうしたなくなってしまう食べ物ではなく、「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言われました。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」とは何でしょうか。それは永遠のいのちです。この永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい、というのです。 皆さん、私たちは何のために働いているのでしょうか。私たちが勉強するのも、良い仕事に就くのも、またそこで一生懸命に働くのも、結局のところ、少しでも良い生活をするためというのがほとんどではないでしょうか。しかしイエス様を信じたことで永遠のいのちが与えられました。その永遠のいのちが養われ、成長するために、働かなければなりません。一生懸命に働くこと自体は大切なことです。私たちは働くために造られました。働くことによって、むしろ、生きがいを感じることさえできます。しかし、問題は何のために働くのかということです。私たちがどんなに一生懸命に働いても、また、そのことによって良い生活を送ることができたとしても、それらのものはやがて過ぎ去ってしまいます。そうした過ぎ行くものがあたかも究極的な事柄であるかのように思っているとしたら、それこそが問題なのです。確かに生きていくためには働かなければなりませんが、それが唯一の目的ではありません。私たちが働くのはただこの世で生きていくためではなく、霊的いのち、永遠のいのちに至るためなのです。イエス様を信じることで与えられた永遠のいのちを持ち、そのいのちを保ち、養うために働きなさいということだったのです。それは、この「働きなさい」という言葉からもわかります。この「働きなさい」という言葉は、「あることのために働く」とか、「努力する」という意味があります。つまり、永遠のいのちのために働きなさい、努力しなさい、ということです。私たちはこの世の朽ちて行くことのためには多くの時間とエネルギーを費やしても、霊的いのちのためにはそれほどでもないのではないでしょうか。その時間がほとんど残っていません。 先週、国連の関連団体が、「世界幸福度ランキング2019」を発表しましたが、それによると日本は昨年から4つ順位を下げて58位でした(156か国中)。これは意外でしたね。日本人の多くは、自分は幸せだと感じている人が多いのに、こんなに順位が低いとは思いませんでした。GDP、平均余命、寛大さ、社会的支援、自由度、腐敗度といった要素を元に幸福度を計るものです。確かに日本は平均寿命が長く、1人あたりのGDPも24位、政治やビジネスの腐敗のなさも39位と高いのですが、社会的支援が50位、社会の自由度が64位、他者への寛大さが92位と低迷しているのです。これはどんなことを表しているのかというと、仕事と経済が中心になっている国であるということです。心に余裕がありません。ほんとうに忙しく走り回っています。霊的いのちのために求める時間がないのです。 でも2,000年前に、ガリラヤ湖畔で語られたイエス様の言葉を見てください。2,000年の歳月を越えて、今もなお私たちの心に響いてきます。先週、大リーグマリナーズのイチロー選手が引退し、その会見で語った言葉には深いものがありました。これまで自分が打ち立てて来た記録をどう思いますか?記録自体は、それほど特別だとは思いません。それよりも、その時にファンの方であったり、球場に来られた方が喜んでくれることが特別だと思いますとか、4,000本という数字があるとしたら、その陰には8,000回の失敗があったということで、自分誇れるとしたらそれを乗り越えることができたというです、など、それを通った人ではないとわからない重みがありました。しかし、イエス様の言葉は、その比ではありません。時代と民族を越えて、すべての時代の、すべての人の心に響く言葉です。私たちが求めなければならないのは、この主イエスの言葉です。霊的いのちは、放っておいて養われることはありません。毎朝晩聖書を読み、祈るには、大きな犠牲と戦いがあります。学校や職場に遅刻しないように努力するのに、永遠のいのちのためにはほとんど努力しないとしたら、どうやってこのいのちを養っていくことができるでしょうか。 先日、天に召されたY姉妹は、60歳で信仰に導かれ、85歳で天国に召されるまで、ひたすら聖書に向かいました。「聖書を読むだけではね」と先輩のクリスチャンから言われましたが、確かに聖書を読むだけでは変わらないかもしれません。しかし、聖書を通読することで聖書全体の流れを掴むことができただけでなく、もっと知りたいという意欲もでてきて、読み続けることができました。このいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働いたのです。 それは、主が与えてくださる食べ物です。与えられた永遠のいのちが養われ、生ける神といつも生き生きとした関係を保つためには、その栄養分が必要です。「それは、人の子が与える食べ物です。」。ですから、私たちはいつもイエス様にとどまり、イエス様からその栄養分を求めていかなければなりません。なくなる食べ物ではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。 Ⅱ.天からのまことのパン(28-33) 次に、28節から33節までをご覧ください。「すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」」 イエス様が、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。」と言われると、それを聞いていた人々は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」とイエスに聞きました。イエス様が言われた「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」と言うことばを、何かをすることによって得られるものと思ったのです。これが一般の人が考えることです。何か善いことをすれば天国に行けると思っているのです。しかし、どんなに善いことをしても、決して天国に行くことはできません。善いことをすることは悪いことではありません。むしろすばらしいことです。しかし、どんなに善いことをしても、それで神に受け入れられるとはないのです。なぜなら、自分でも気付かないうちにそこに不純な動機が入り込んだりして、善行が善行でなくなってしまうからです。私たちの本性は罪のために腐っているので、こうした善行が神に受け入れられることはないのです。では、どうしたらいいのでしょうか。 29節にこうあります。「イエス様はこう言われました。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。』」ここで人々が、「神のわざ」と言っているのは、旧約聖書にある律法のことです。それに対してイエス様は、神のわざとは律法を守ることではなく、神が遣わされた者を信じることであると言われました。これは信仰による救いを教えています。私たちが救われる道は、私たちが何か善いことをすることによってではなく、神が遣わされた御子イエスを救い主として信じる以外にはありません。もっと言うなら、私たちが救われるためには、私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、救いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストを信じるだけでいいのです。それを信じることこそ、神のわざなのです。ここでヨハネが言っていることは、神から遣わされた御子イエス・キリストを、生涯信じ続けるということです。それが神のわざです。考えてみると、そのように生涯を通してキリストを信じ続けるということは、自分の意思や力によってできることではありません。善い行いであれば、時間なり、体力なり、資金があればできるかもしれませんが、生涯にわたってイエス様を信じ続けることは、自分の力でできません。私たちは弱い者ですから、たとえば、大きな試練に直面したりすると、「イエス様を信じているのになんでこうなるの」と、信仰から離れてしまうことさえあります。そのような中でも信じ続けることができるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。ですから、これこそ神のわざであり、神が喜んでくださるわざなのです。 すると彼らは、自分たちがイエスを信じるために、何をしてくれますかと言いました。どんなしるしを与えてくれるのかというのです。というのは、31節にあるように、彼らの先祖は、荒野でマナを食べたという経験をしたからです。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです。」これは、出エジプト記にあることです。モーセの時代、彼らの先祖は荒野でマナを食べました。それは天からのパンとして、神が先祖たちに与えてくださったものです。それは彼らにとってのしるしでした。であれば、イエスは自分たちにどのようなしるしを見せてくれるのか、というのです。どのようなしるしを見せてくれるのかと言っても、彼らはたった今、五千人の給食の奇跡を見たばかりじゃないですか。それなのに、どんなしるしを見せてくれるのですかと言うのは変な話です。しるしとは、証拠としての奇跡です。それが本当に神からのものであるということを示す証拠ですね。それを求めたのです。 これは、いつの時代も同じです。人々はしるしを見ないと信じられません。だから、多くの人々は新興宗教に走って行くのです。しかしこの人々は、モーセが与えたパン以上のもっと大きなしるしを見たではありませんか。それは天からのまことのパンでした。それはモーセの時代に荒野で食べたマナではありません。天から下って来て、世にいのちを与えるものです。32節と33節にこうあります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」ここでイエス様は、モーセの時代のマナと、今、父なる神によって与えられようとしているパン、すなわち、天からのまことのパンを対比しているのです。モーセの時代のマナは、確かに肉体の食べ物にはなりましたが、いのちを与えることはできませんでした。しかし、父なる神が与えてくださるパンは、天からのまことのパンであり、人々にいのちを与えてものです。これこそ最高のしるしではないでしょうか。なぜなら、このパンは信じる者のうちに働いて、驚くべき神の御業をなされるからです。このパンが私たちに与えられると御霊によっていのちが与えられ、全く新しい者に造り変えられます。 あのニコデモのことを思い出してください。ニコデモはそれまでユダヤ人を恐れ、ほっかぶりをして、ある夜、イエスの許にやって来ました。しかし、御霊によって新しく生まれると、全く別人のようになりました。彼はイエス様が十字架に付けられて息を引き取ったとき、それは午後3時頃のことでしたが、公然と十字架のイエスのもとに歩み寄りました。そして、遺体を引き取ると、没薬と香料を混ぜ合わせたものを30㎏ほどイエスに塗って、まだだれも葬られたことのない墓に葬りました。あれほどユダヤ人を恐れていた人が全く恐れずにイエスの許に歩み寄ることができたのです。それは、イエス様を信じて新しい人に造り変えられたからです。 サマリヤの女はどうですか。サマリヤの女は、5回も結婚し、今一緒にいるのも本当の夫ではありませんでした。彼女は男性こそ自分の心を満たしてくれると思っていましたが、どの男もみな同じ。だれも彼女の心を満たすことはできませんでした。そんな時、スカルという町の井戸に水を汲みに来たとき、イエス様と出会いました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して変わることがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:14)彼女はイエスに言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(4:15)するとイエス様は彼女に言いました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(4:16)彼女は、自分のことを言い当てることができたこの方こそキリストであると信じました。すると彼女は、水を汲みに来たのに水がめをそこに置いて街に行き、「みなさ~ん、来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と言いました。もはや、人と会いたくないとは思いませんでした。自分の心を神のいのちの水で満たしてくれたイエス様を、多くの人に伝えたいと思うようになったのです。 先日、仙台で行われたT&Mセミナーに参加しました。その中に15秒で証しするという時間がありました。自分が救われた喜びを15秒で証しするのです。イエス様を信じる前の私はこうでした。でもイエス様を信じてこうなりました。あなたもこうなりたいと思いませんか。15秒です。30秒は長いです。3分だったらだれも聞きません。最初に人と会って証しする時はインパクトが必要です。インパクトのある証しはコンパクトでなければなりません。だから15秒でまとめなければなりません。私のロールプレイの相手は、かつて大学の教授をしていて、その後牧師になられたM先生でした。この先生はかつて教授だけあって話が長いのです。しかし、先生の証しはインパクトがありました。15秒でした。「私は、29歳まで荒野のような人生でした。ボロボロでした。しかし、イエス様を信じた時人生が全く変わりました。荒野に泉が湧いたのです。あなたもそうなりたいと思いませんか。」この経験が先生の信仰生活を支えているのです。それはまさに御霊なる神の働きです。これこそ、大きなしるしではないでしょうか。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。 Ⅲ.わたしがいのちのパンです(34-40) では、そのパンとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。34節から40節までをご覧ください。34節と35節をご覧ください。「そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 イエス様が、「わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです」と言うと、それを聞いた人々は、「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」と言いました。この段階でも、彼らはイエス様が与えるパンは信仰によって与えられる霊的なパンであることを理解していませんでした。それに対して、主はこのように言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネの福音書の中には、「わたしは・・・です」という言い方が7回出てきます。その一つが、この「わたしはいのちのパンです。」です。そのほかに、「わたしは世の光です。」(8:12)「わたしは羊たちの門です。」(10:7)「わたしは良い牧者です。」(10:11)「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1)とあります。これは、6章20節で、主が「わたしだ」と言われたところを学んだ時にも申し上げましたが、イエス様が存在の根源であられるということです。つまり、イエス様は神ご自身であられることです。ヨハネはこのように表現することで、主がどのような方であるかを表そうとしたのです。そして、ここで主は、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。「わたしはいのちのパンを与える」と言われたのではなく、いのちのパンそのものであると言われたのです。これはとても重要なことです。イエス様がいのちに至る食べ物を与えてくだいますが、そのいのちに至る食べ物とは、イエス・キリストが持っておられるものであるというのではなく、イエス・キリストそのものがそれであるということです。ですから、その後のことばにあるように、「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時でも、決して渇くことが」ないのです。キリストのもとに行くなら決して飢えることはありません。渇くことがないのです。なぜなら、キリストこそいのちのパンであられるからです。キリストこそ、私たちにいのちを与え、本当の生きがいを与え、私たちの人生を生き生きとしたものにしてくださるのです。あのM牧師の証しにあるよう・・・に。 ところが、ユダヤ人たちは、その主の許に行こうとしませんでした。彼らはキリストを見たのに信じなかったのです。見ているのに信じなかったのです。これは、今日キリスト教のいろいろなものに触れながらも、信じようとしない人たちと同じです。見てはいますが信じません。ある人はクリスチャンホームに生まれ育ち、それを見ていても信じようとしません。またある人は、ミッション・スクールに行ったり、キリスト教の集会に行ったり、クリスチャンの友達から聖書の話を聞いたり、いろいろな本に触れたりと、何らかの形でキリスト教に触れていても、信じようとしません。これらの人たちは、自分の霊の飢え渇きすら感じていないのかもしれません。肉体的には十分に栄養を補給して肥えていても、霊的には貧弱で、今にも倒れそうになっていることに気付いていないのです。 しかし、「父がわたしに与えてくださっている者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来るものを、わたしは決して人に追い出したりはしません。」これは驚くべき宣言です。父なる神が御子に与えてくれるものでなければ、御子のもとに来ることはありません。つまり、信仰を持つことさえできないというのです。私たちがキリストを信じることができるようになったのは、神が私たちを救いに選んでいてくださり、キリストを信じるように働いていてくださったからなのです。 自分のことを考えてみてもそう思います。小さい時にキリスト教の保育園に預けられ、青年時代に妻と出会いました。自分は何のために生きているのかわからなかった時、教会に行ってイエス様を信じることができました。なんでそうなるの?わかりません。どんなに脚本を書こうとしてもそうはならなかったでしょう。しかし、神は私が生まれる前から、いや、この世界の基が置かれる前から、そのように選んでいてくださいました。聖書にそう書いてあります。私たちが救われたのは、一方的な神の恵みによるのです。だから、この救いは確かなのです。私が好きで信じたものであるなら、嫌いなったら離れてしまうということもあるでしょう。しかし、神がそのように選んでくださったので離れてしまうということはありません。神が掴んで離さないからです。「わたしのもとに来るものを、わたしは決して捨てません。」(現代訳)とあるとおりです。 それは39節と40節でも言われていることです。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」」これは何のことかというと、復活のいのちのことです。イエス様は27節で「永遠のいのち」について語られました。また、33節では「天からのパン」について語られました。ここでは、最後の時に天の御国に入れてくださる復活のいのちについて語っています。つまり、神が御子をこの世に遣わされたのは、私たちが御子にあって永遠のいのちを持ち、そのいのちに与ったすべての人を一人も失うことがないようにし、最後の時に天国に入れてくださるためだったのです。 私たちの人生は、肉体の死で終わるものではありません。その先には「復活のいのち」が用意されています。そのいのちに与ることができるように、イエス様は確実に導いてくださいます。それが神のみこころなのです。この世にあっては、悪魔の執拗な攻撃に、時に失敗したり、意気消沈したり、不安になったり、動揺したりすることがありますが、しかし、このキリストの御手から落ちることは決してありません。終わりの日に必ずよみがえらせていただけるのです。 それなのに、どうして私たちは、自分のような者はダメだと言って、落ち込んでいるのでしょうか。それはまさに悪魔の思うつぼです。たとえ神様でも自分のような者は救うことはできないだろうと思わせるからです。でも、キリストはあなたを救うことができないのでしょうか。たとえあなたが自分はダメな人間だと思っていても、キリストはあなたを救うことがおできになります。なぜなら、キリストはいのちのパンであられ、すべての存在の根源であられる神だからです。キリストの使命は、父なる神のみこころを行うことであり、父なる神のみこころは、御子に与えてくださった人を、ひとりも失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。神の御子であられるイエスは、その御心を確実に実行されます。ですから、私たちはこの方に信頼しなければなりません。キリストに信頼する者をキリストは決して捨てることはありません。みんな御国に入れてくださいます。この方にゆるぎない信頼を置く人は幸いです。私たちも自分を見て落ち込むのではなく、主イエスの約束に信頼し、そこから慰めと励ましをいただき、与えられた信仰の生涯を全うさせていただきましょう。礼拝 毎週日曜日 午前11:00
ヨハネと天使 22章8~9節 19章10節と同じような状況がここでは語られています。ヨハネは自分に「ヨハネの黙示録」の描写する数々の幻を示した天使の前にひれ伏します。しかし、ヨハネが自分に対してひれ伏すことを天使は厳しく禁じます。 第6章 6:1 . 今まで見て来たように、「ヨハネによる福音書」は、多くの箇所で他の三つの福音書とは異なったやり方で、イエス様のみわざを記述してきました。しかし、この6章に至って、四つの福音書の記述は一挙に合流します。多くの人々に食べ物を分け与える奇跡の後にイエス様が水の上を歩かれる記述は、「マルコによる福音書」でも共通しています。他にも共通する点がいろいろとあります。例として、人々はイエス様から「しるし」を要求します(「マルコによる福音書」8章11~13節)。ペテロはイエス様をキリストであると信仰告白します(「マルコによる福音書」8章27節)。「マルコによる福音書」(8章31~38節)でも「ヨハネによる福音書」でも、キリストの歩まれる道は、今はっきりと恥辱と下降へと向かっていきます。「ヨハネによる福音書」が聖餐式の設定については語っていないことを覚えている読者にとって、この6章の内容は困惑を招くでしょう。確かにこの福音書は、聖餐について、直接には一度も言及していません。にもかかわらず、この6章は、聖餐式の施行について語っているものと考えないと、まったく理解できなくなります。「ヨハネによる福音書」が聖餐や洗礼についてヴェールで覆うような書き方ばかりしている理由を、研究者たちは説明できませんでした。「ヨハネによる福音書」は、該当事項の記述に関して、他の三つの福音書(とりわけ「マルコによる福音書」)に信頼して任せたのかもしれませんし、すでに聖餐や洗礼について基礎知識をもっている人々に対して語りかけたかったのかもしれません。あるいは、神様の御国の奥義をすべての人には明かしたくなかったのかもしれません。6章の意味は、5章との関連で明らかになります。5章の終わりで、イエス様は、すでにモーセが御自分について証していた、と語られます。ユダヤ人たちは、この証を旧約聖書から見つけることができませんでした。にもかかわらず、キリストのみわざとペルソナは、すでに旧約聖書の端々に見出されるものです。大勢の人に食べ物を与える奇跡と、イエス様が水の上を歩かれる奇跡とは、まさにこのことに関連しているのです。数百年前には、イエス様が本当に何千人もの人々に食べ物を分け与えられたという考えは、学識のある人々には受け入れられるものではありませんでした。彼らによれば、第一に、そのような奇跡は自然に反することであり、奇跡は決して起きないはずからです。第二に、パンを次々と懐から出して配るような手品師などよりもイエスは偉大なはずだからです。イエスは実際にはパンの数量を増やしたのではなく、自分の示した模範にしたがって人々がめいめい自分のパンをお腹のすいている他の人に分けるようにさせたのだ、と彼らは説明しました。実のところ、この奇跡について読む人は、旧約聖書をひもとく必要があります。「列王記下」4章42~44節の出来事の流れは、そこでの会話も含めて「ヨハネによる福音書」の内容とほぼ一致しています。そして、この奇跡のゆえに人々がイエス様を預言者とみなしたことがわかります。はるか昔、神様が御自分の民の只中で行われた偉大なみわざが、今再現されたことになるからです。そして、目に見える形での神の国の到来を人々が熱心に待ち望んでいた時代に、イエス様の奇跡がどのような意味をもっていたか、もわかります。おそるべきことに、この大成功した奇跡は、一方では不幸ももたらしました。人々は奇跡を見て、それを行ったのが神であることを認めました。しかし、この時に彼らは神様の御子のことは拒んだのです。イエス様は、パンを与える救世主(メシア)ではありませんでした。表面的に快適な生活を送ることを目的としてイエス様をさがすべきではなかったのです。奇跡もまた、人々の心をイエス様への信仰で満たすことを、その目的としていたからです。イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放された時には、マナの奇跡(荒野で飢えたイスラエルの民に神様が天からマナと呼ばれる食べ物を与えられたこと)と、救いの奇跡(紅海がイスラエルの民の前で二つに分かれて追っ手のエジプトの軍隊から救われたこと)とが、互いに結びついていました。このように聖書は、キリストがこれらの奇跡に対応する奇跡を再び繰り返したことを証しているのです。この奇跡に関して、「ヨハネによる福音書」とその他の三つの福音書との記述は、明らかに一致しています。「ヨハネによる福音書」は、イエス様が水の上を歩く奇跡とは別の奇跡についても語っています。それは、弟子たちの舟が岸から5~6キロほどの地点でイエス様に遭遇した後すぐに目的地についた、という奇跡です。イエス様は実に不思議なことを言われました。この「私はある」という言葉は、モーセが神様の御名前をお尋ねした時に彼に与えられた啓示(「私はある、という者です」)を思い起こさせます(「出エジプト記」3章14節)。この出来事のメッセージは、イエス様は湖を越えるために近道された、ということではなく、全能なる神様が顕現された、ということです。そして、まさにこれは「ヨハネによる福音書」の1章冒頭の「ロゴス賛歌」のテーマです。「ヨハネによる福音書」が奇跡の出来事を語るのは、奇跡が人々の興味を引くからではありません。イエス様のなさった「しるし」の目的はいつも、奇跡の表面的な興味深さよりも深く大いなることがらに関わっています。ここでも、それはあてはまります。食べ物の奇跡の後には、命のパンについての話が続きます。ひどいことに、これほど壮大な奇跡をなさったにもかかわらず、またしてもイエス様は人々から誤解され拒絶されることになります。この内容豊かな箇所から、私たちは幾つかのことを取り上げるのに留めましょう。イエス様が命のパンについて語られる時、そこには少なくとも三つの層が見出せます。 「あなたがたは不義の世が神様と御心を無視しているのを目にしています。あなたがたはそれとは反対のことをしていきなさい。不義の世が不義に留まり、神様の御言葉の教えに反する生きかたをし、神様に無謀な戦いをしかけるのは、ある意味で自然であるとも言えます。神様の教会が聖なる生活を送り、信仰に留まり、神様の側に立って戦うのも、それと同じくらい自然なことであるべきです」。 ヨハネによる福音書 第2章13〜22節 説教題 「神はたった三日で、すべてを新たにされる」 ... ヨハネによる福音書 第7章53節〜8章11節 説教題 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。 6:2 . 「いのちのパン」 ヨハネ6章22~35節 投稿日 : 2020年7月5日 | カテゴリー : 礼拝メッセージ 今日のテーマは、イエス・キリストが言われたことばそのものである。 ヨハネによる福音書 第2章13〜22節 説教題 「神はたった三日で、すべてを新たにされる」 ... ヨハネによる福音書 第7章53節〜8章11節 説教題 きょうは、ヨハネの福音書3章22節から30節までの箇所から、「主役はキリスト」というタイトルでお話しします。 Ⅰ.ヨハネの弟子たちのいらだち(22-26) 1)この話の背景には、食べ物の奇跡があり、パンはまったく普通のパンを意味しています。ユダヤ人たちは、命のパンを決してなくならない(この世的な意味での)パンのことだと理解します。2)この話の背景には、「箴言」9章(特に1~6節)があり、そこには「知恵」が行う祝宴が描かれています。「ヨハネによる福音書」のプロローグでは、「知恵」=「ロゴス」=「御言葉」が肉となり、人々の間に住まわれたことが語られています。イエス様こそが、この「人となられた知恵」です。この「知恵」は、人々が間違った生き方を捨てて、御自分の諭しを受ける道を歩みだすよう、呼びかけています。
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